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神はなぜ罪や災いを許されるのか?

ファーザー・ダビデ著

Crying girl

先日私は、旅行代理店の若くてきれいな女性と話をしていたのですが、会話を進めて行く内に、神についての話になりました。

「私は神なんて信じていません!」と彼女は言いました。そして、こう続けたのです。「もし神がいるなら、今の世界にはどうしてこれ程も悲惨な出来事が起こるのでしょう? アフリカでは、どうして毎日何千人もの人々が餓死しているのですか? エイズのような恐ろしい病気がはやるのを許すなんて、それが神と言えるでしょうか? 私の一番の親友は、交通事故で足が不自由になってしまいました。それはなぜなんですか?」

そこで私は答えました。「けれども、世界にある災いをすべて神のせいにすることはできません! 神は、人々が苦しむのを見て喜ぶような、残忍な怪物のような方ではありませんから。そのようなことをすべて引き起こしているのは、神ではないのです。その多くは、サタン、つまり悪魔の仕業なのです。そして悪魔は、人を傷つけ、人が苦しむのを見るのを何よりも楽しみとしています! 事実、それは、人が神のことを信じないようにさせるための、悪魔の主要な策略の一つであって、悪魔は、自分自身の汚い業を神のせいにしようとしているのです!」

その若い女性は、しばらく沈黙し、考え込んでいましたが、それから、無神論者たちの使う、とっておきの質問をしてきたのでした。それは、彼らがクリスチャンを困らせようとして常に用いる、切り札とも言える質問です! 「でも、もし神が存在し、万能であるのならば、なぜ神は悪魔を阻止せず、いろいろな不幸が起こるのを許されるのですか? 神はなぜ、世界に悪が存在するのを許されるのですか? 例えば、どうして神はヒットラーを止めなかったのですか?」

私はこう答えました。「さて、そういう質問をしたくなる気持ちはよくわかります! けれども、もし神がヒットラーを止めていたのなら、神はあなたをも止めなければならなくなってしまいます! というのも、あなたもまた罪びとだからです。そうではありませんか? ヒットラーほど悪くはないでしょうが、私達は皆、悪いことをしたことがあります。そうでしょう? 聖書には、『すべての者が罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている』と書いてあります。(ローマ3:23) ですから、もしヒットラーを止めているべきだったと言うのなら、神は、世界中のすべての人が悪いことをしようとするたびに、いつもそれを止めていなければならなかったということになります! まさに天地が造られた時から、神は人の決断に割り込み、エデンの園でアダムとイブが善悪を知る木の実を取って食べるのを無理矢理やめさせなければならなかったことでしょう。神は、自分の意志によって自由に選択するという権限を私達に与えられ、善を取るか悪を取るかは私達一人一人の決断に任せておられますが、神は私達のそうした決断にも干渉しなくてはならなかったことでしょう!」

すると彼女は、「では、どうして神は、人間を造った時に、良いことしかしないように造っておかなかったのですか?」と言って反論してきました。

そこで私は、「もし神がロボットがほしいと思っていたのなら、確かに、神はすべての人間が良いことだけをして、神を愛するように造ることもできたことでしょう。けれども神は、私達に、自由な選択や自由な意志を与えられたのです。それは、私達が自分の意志で神を愛するようになるためです! もし子供達が、強いられてやむなくあなたを愛しているのなら、あなたは自分の子供達といても心から楽しめないでしょう?」と、質問を投げかけたのでした。

彼女は困惑しながら、「ええ、それは‥‥でも、そのことは、様々な悲惨な出来事と何の関係があるのですか?」と答えました。

「人間は、善を行うか悪を行うか、物事を神のやり方で行うか、自分のやり方で行うかの選択をするために、この世界に存在しています。だから、現代の世界に、これほども沢山の苦しみや、悲惨さや、苦痛や、病気や戦争や経済問題などがあるのも、その根本的な原因は、人間の選択にあるのです。つまり、人間が、神を愛し、神に従うことをせず、人間の健康や幸福を願って作られた神の愛情深い規則に背き、物事を自分勝手なやり方で行うことを選んだことが原因です。その結果、人は自分達がした間違った決断のゆえに苦しんでいるのです! 聖書に『人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある!』(箴言14:12) とある通りです。」と私は説明したのでした。

そこまで話すと、彼女は客の相手をするようにと呼ばれたので、私達の会話はそれで終わりになりました。しかし後になって私は、世界にある様々な災いの多くが、悪魔によって引き起こされたものでさえなく、もちろん神が人間に対して意地悪をしたいがために引き起こされたのでもなく、むしろ人間自身の愚かさによって引き起こされたものなのだということを考えていたのでした!

戦争では何千万もの人々が殺されたり、負傷したりしますが、絶えずそういった戦争をすることによって、人は、自ら、語り尽くすこともできないほどの苦しみを引き起こしているのです! マルチン・ルターは戦争のことを、「人間を悩ます最大の災難である。戦争は宗教を破壊し、国々を破壊し、家族を破壊する。どんな災害も戦争よりはましだ!」と言いました。では、人間の戦争は神のせいにされるべきなのでしょうか? 聖書にはこう書いてあります。「あなたがたの戦いや争いは、一体、どこから起こるのか? それはほかでもない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲望からではないか?」−−ヤコブ4:1。戦争によって引き起こされている苦しみを、神のせいにすべきではありません。そうではなく、人間自身の利己心、欲望、高慢さ、競争心が原因で、そうした苦しみが引き起こされているのです。他人の物を破壊してまでも、自分に益をもたらそうとする貪欲さや利己心、これこそが戦争を引き起こしているのです!

しかし、信じがたいことかもしれませんが、交通事故は、戦争以上に多くの人の命を奪い、苦しみをもたらしています! 例えば、アメリカでは、これまでの戦争による戦死者の数よりも、自動車事故による死亡者の数のほうが多いのです! アメリカ国内だけで、毎年5万6千人が自動車事故で亡くなっており、その半分は、酔っ払い運転が原因です!

人間が作り出した実に多くのもの、例えば、兵器、スピードばかりを追求する交通機関、そびえたつ高層ビル、農薬、致命的な化学薬品や薬物などは、死をもたらし、破壊的で、あらゆる種類の災いを引き起こしています。人がわがままにも自分勝手な道を進み、神が全く望みもされなかった物を作り始めるなら、災いが起こって当然ではないでしょうか?

もし自動車がなかったなら、交通事故で人が死んだり、負傷したりすることは全くないでしょう。もし車や工場がなかったら、工場の排煙や車の排気ガスによる大気汚染もないでしょう。私達の現代の不自然な生活様式こそが、世界の災いの多くを招く主要な原因となっているのです! およそ150年前まで、陸のおもな輸送手段は馬と馬車で、その結果、世界の大部分は、もっと平和でゆっくりとした、健全なペースで進んでいました。

また、ひどい頭痛や胃潰瘍、心臓病のような、精神的なことが関係している病気の実に多くは、現代社会のもたらす、不必要なストレスやイライラ、心配、緊張が原因です。第一ペテロ5章7節は、一切の思い煩いを神に委ねなさいと忠告していますが、私達はその忠告に従ってはいません。そのため、心配したり思い悩んだりして、病気になってしまうのです!

また、人々は様々な病気によって苦しんでいますが、その多くは、人が自ら招いているものであって、栄養の偏った食事が原因です。神は私達に、自然の砂糖を与えて下さっていますが、それを漂白することによって、人間はそれに含まれる栄養素を破壊し、白いだけで健康的ではないものにしてしまっています。また、全粒粉で作られたパンの方がはるかに健康に良いにもかかわらず、人々は白いパンを食べています。私達は、神の定めた健康のルールを破って、神が豊かに供給して下さっているおいしい自然の果物や野菜、その他の食べ物ではなく、栄養のない物や甘いお菓子や、合成保存料などの入った物ばかり食べているのです。また人々は、私達の心と体の両方に害を及ぼす喫煙や飲酒や薬の服用によって、自ら病気を招いています。そのように、人間が故意に自分の体に悪いことをしているのに、それでも神のせいだと言うのでしょうか? もちろん、そんなことはありません!

スーダンやエチオピアのような、何百万もの人が餓死している国のことを考えてみて下さい。これは、人間が自ら苦難を引き起こしている、また別の例です。かつて、アフリカ北部に広がる砂漠は、肥沃で、美しい森林地帯でした。ところが、そこにあった木がみな、人間によって、過去何世紀にも渡って伐採されてしまったのです! その結果、表土が侵食されてしまい、あたり一帯、砂漠と化してしまいました。そして、人々は、肥えた土地を求めて南に移動するにつれて、どんどん木を切り続けたため、当然のことながら、砂漠も南下していったのでした!

人が自然の生態的なバランスを壊してしまったがゆえに、アフリカ北部には今日、900万平方キロにも及ぶ砂漠が広がっています。その結果、そこでは、莫大な数の人々が毎日、餓死しているのです!

あなたはこれを神のせいにすることができるでしょうか? このような問題は、長年に渡る人間自身の愚かさによって引き起こされているのです! そして、これらの問題は、何世代にも渡って着実に悪化してきています。

一方、世界の他の地域においては、食糧が大量に過剰生産されており、その量は、一年に何千万トンにも及んでいます。ですから、神は、誰も飢えることがないように、十二分に食糧を供給して下さっています! けれども、西側諸国は、世界の貧しい国々が飢えに苦しんでいるというのに、何億ドルものお金を費やして、過剰農産物を貯蔵したり、処分したり、さらには、作物を作らせないために農民に助成金を払ったりしています。また、人々は、痩せるための体操やダイエットのためにお金を費やしているのです!

人が自ら招いている災いは他にもあります。例えばエイズです。それは、特に、ホモの男性の間で流行している病気です。ホモ行為は、不潔で、不健康で、不自然であるがために、神によって禁じられ、呪われています! 「男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」−−ローマ1:27。エイズやその他の多くの病気は、人間が神の御言葉と神の健康の規則に背いて、体に悪いことをしたために生じ、広まっているのです。ですから、人がその罪の結果として苦しむのは、神のせいなのでしょうか? もちろん、違います! 聖書に書かれているように、彼らは、「その乱行の当然の報いを、身に受けている」のです。モーセの律法の時代には、そのような人々は石打ちの刑に処されました!

人間が自ら引き起こしている悲惨な状況は他にもあります。第三世界の大都市に住む貧民たちは、哀れなまでに貧しく不潔な生活をしています。ボンベイ、カイロ、リオデジャネイロ、マニラなどの都市の至る所に貧民街が存在し、そこでは何百万にものぼる不法居住者が、粗末な掘っ立て小屋に住んでおり、水は汚く、生ゴミが散らかり、下水が流れ出し、その不潔さは、想像を絶するほどです!

しかし、神は、人間がそのような状態で生活することを望んでおられたわけではありませんでした! 彼らはそもそも都市などに来るべきではなかったのです! 田舎にとどまっていたなら、彼らの生活はずっとまともなものだったことでしょう。田舎には、新鮮な空気や食物があるし、人は、重労働をして、体をよく使うし、人の数も少なく、美しくきれいな川が流れています。そして、子供達の遊ぶ場所は沢山あり、動物を飼ったりすることもでき、田舎での、素晴らしく、健康的な生活を大いに満喫することができます。神はもともと、人間が田舎で健康的な生活を送ることを望んでおられたのです!

しかし、貧しい人々は、都会の金持ちが持っている豪勢な車や美しい住まい、そして豪華な贅沢品や無用の骨董品を見ると、そのような物があったらどんなに幸せだろうと考えます! 彼らは、都市では、もっと多くのお金を楽に稼ぐことができ、贅沢な暮らしができると思うのです!

そこで彼らは都市に群がるのですが、まもなく家庭は崩壊してしまいます。親は職を見つけることもできず、子供は麻薬や犯罪に走り、皆、ひどい病気や栄養失調にさいなまれるのです。そして、自分達の排泄物の中で暮らすも同然の生活をしている場合も数多くあります。実に汚く、汚染された水で物を洗ったり、料理をしたり、さらにはそれを飲むことさえしているのですから!

何千人もの人々が、チフスやコレラやその他のあらゆる種類の病気で死んでいるのも、不思議なことではありません! 偉大な歴史家だったトインビーが言ったように、「都市というのは、地上の膿んだ腫れ物」です。しかし、それは神の過ちではありません!それは、人がもたらした呪いなのです!

国によっては、貧しい村人たちが、地方で起きた内戦や、ゲリラ戦、あるいは犯罪グループや山賊たちから逃れるために、都市に殺到している場合もあります。そういう場合には、彼らの苦難は、他の者達の貪欲さや暴虐行為や、戦争における人間同士の非人間的な行為によってもたらされているのです。

もちろん、世界中で何千万にものぼる人々が、不潔な環境にあって貧困に苦しんでいるのは、おもに、裕福な人々が利己的であることが原因です。金持ちの大半は、自分の富や土地を他の人々に分け与えるという義務を果たしておらず、貧しい人々に職を与えることもしていません。また、貧しい人々が人並みの生活をすることができるようにと、彼らの労働や生産物に対して、十分なお金を支払うこともしていません。もし彼らがちゃんと支払うなら、必ず、皆に十分行き渡ることでしょう。主は最初からそうなることを望んでおられたからです。神は、貧しい人々が苦しむことは望んでおられないので、金持ちに、その富を貧しい人々と分け合うようにと、聖書の中で繰り返し忠告し、命じてさえおられるのです!

ですから、世界にある災いのほとんどは、全く神のせいではなく、人のせいです! 人が、神ご自身の愛情深い規則に対して背いているためなのです! そして、信じがたいことかもしれませんが、金持ちも苦悩を味わっています! ある意味では、貧しい人々以上にさえ! 貧しい人々には、少なくとも、いつか富を手にしたら、自分も幸福になれるだろうという望みがあります。ところが、金持ちは、そのすべてをすでに持っていながら、なお幸福ではないのです。金持ちの大半は、貧しい人々を虐げたり、彼らから搾取することによって、自分の富を築いてきました。これは、他の人達に愛と思いやりを示し、持っている物を分け与えなさいという、幸福と精神的な豊かさのための神の律法に反することなのです。

それゆえに、たいていの金持ちは、罪の意識にさいなまれており、さらには、自分の財産を誰かに奪われてしまうのではないかという恐れも抱いています。そのため彼らは、泥棒や強盗や自分の敵が家に侵入するのを防ぐために建てた高い門や塀に囲まれた家の中で、まるで囚人のように暮らさなければならないのです! ところが、地獄の悪魔は、そういった門や塀も全くお構いなしに彼らの家に侵入し、彼らに、恐れや病気や心配や死をもたらすのです!

神が許される、また別の種類の非常に大きな苦難は、迫害です。迫害とは、神に従う者達が、福音を拒み、神を神とも思わない悪人達の手によって苦しみを受けることです。何千年もの間、義なる人々は、この世の邪悪な人々の手にかかって、苦痛や迫害や剥奪に苦しんできました! 事実、勇気をもって立ち上がり、この世の悪に対して積極果敢に戦うクリスチャンは、必ず迫害にあうのです。「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きる者は皆、迫害を受ける!」−−第二テモテ3:12。

もし、私達がこの世界にある災いのすべての原因をここで取り上げようとするなら、一冊の本ができあがってしまう事でしょう! けれども、私達は、この読み物を通して、人生において誰もが抱くこの大きな質問、つまり「なぜ神は災いを許されるのか」に対して、少なくとも幾つかの答えを皆さんにご説明できた事を願っています。その答とは、人間が自ら災いをもたらしているということなのです! 神の御言葉を読んだり、祈る事によって、私達はその理由の多くを理解することができますが、その疑問に対する全ての答えを知るのは、天国に行くまで待たなくてはいけない事でしょう。中には、神と同じ見方ができるようになるまでは、私達には理解できない事もあるからです。

このことを説明するのにぴったりの話があります。それは、聖職者であるハンドリー・モールが、炭鉱で物凄い地下爆発があった直後に現場を訪れた時のことでした。鉱道の入り口には、悲痛な表情をした群衆が集まり、その中には、生き埋めになった炭鉱夫の家族もいました。

ハンドリー・モールはこう語りました。「このように悲惨な災害が起こるのをどうして神が許されたのか、それを理解するのは、私達にとって非常に難しいことです。けれども、聞いて下さい。私は家に、母からもらった古いしおりを持っています。絹の刺しゅうがしてあるのですが、その裏側を見ても、糸のもつれしか見えません。大きな間違いのようにしか見えないのです! きっとやり方も知らない人が刺しゅうしたのだと思うことでしょう。しかし、ひっくり返して、表側を見てみると、そこにはきれいに『神は愛!』という文字が刺しゅうされているのです。私達は今日、この出来事全体を裏側から見ているわけです。でも、いつの日か、私達は別の観点からこのことを見て、どうしてこのような事が起こったかが理解できるようになることでしょう。」

たとえ私達にはその理由がすぐにはわからなくとも、神は常に、何かの目的と計画があって、災いが起こるのを許しておられます! 時には、「神の道は測りがたい」(ローマ11:33)ものなので、私達はただ、神に信頼しなくてはなりません。神は何をなさるにも愛の内になされ、たとえ今すぐその理由がわからなくても、後になってわかる時が来るのだと!

最後に私達は、災いに遭うことによってもたらされる益についても語らなくてはなりません。苦しみを経験するのは、しばしば良いことなのです! 古代ギリシャ人はそう信じていました。彼らが人間の苦しみや悲しみを描いた悲劇を沢山作ったのも、それが理由です。彼らは悲しみのことを「カタルシス」と呼んでおり、「カタルシス」とは、心を洗い流し、清めるという意味です。古代ギリシャ人は、深く心を動かされたり、涙を流すことによって、自分の内にある不純物、すなわち浅はかさや愚かさが洗い流され、より誠実で純粋な人間になることができると信じていました。昔の詩に、このような詩があります。

 私は愚かさと一緒に1キロ歩いた。
 彼女はその道すがら絶えず話し続けた。
 しかし、彼女の話すことからは、
 私は何一つとして学ぶことはなかった!
 私は悲しみと一緒に1キロ歩いた。
 彼女は一言も語らなかった。
 しかし、彼女と共に歩いたその日一日で、
 私はいかに多くの事を学んだことか!

しばしば、悲しい経験を通して、人々の内にある優しさや良さが引き出されるのです! 悲しみ、苦しみ、犠牲は、人の内にある最善のもの、すなわち、憐れみ、愛、優しさ、悔いた心、そして他の人達に対する愛と思いやりを引き出します! 災いはあなたを強めてくれます。他の人を力づけられるほどに強めてくれるのです。聖書にはこう書いてあります。「私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、他の人々を慰める!」−−第二コリント1:4 クリスチャンである私達は、災いや苦難を経験することによって、自分が見いだした答え、すなわち、人間のあらゆる問題や悩みを解決することができる、イエスという答えを、他の人達にも教えてあげたいという気持ちがわいてくるのです!

多くの場合、苦難の経験は人々の心を神に向けさせ、それを通して、神に許しを求め、悔い改め、自分を救って下さいと神に求めるようになります。神が自分を懲らしめておられるのだということに気づき、「主よ、私のどこがいけなかったのですか? どうして私にはこれが必要なのですか?」と尋ねるのです。「私は苦しまない前には迷いました。しかし、私は悩みの内に主に呼ばわり、主は聞いて、すべての悩みから救い出された!」とダビデ王が言ったように。(詩篇18:6、34:6、119:67) ですから、苦しみや災いは、私達の心をもっと神に近づけてくれるのです!

そして最後に、「この大祭司(イエス)は、私達の弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私達と同じように試練に会われたのである。」ということを決して忘れないようにしましょう。(ヘブル4:15) イエスご自身、苦しみに会うというのがどんなことかをご存知なのです! イエスは、私達の誰よりも苦しまれました! イエスは世界中のすべての罪のために苦難を経験されました。そして神の御言葉は、やがて、神を愛する者達の苦しみが終わる時が訪れると約束しています。神が、「人の目から涙を全く拭い取って下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである!」と。−−黙示録21:4。

その、まったき日が来るまで、私達は少しの苦しみに耐えなければなりませんが、天国では報酬が私達を待っており、その報酬に比べたら、この世で私達が味わう、つかの間の痛みや苦しみは、取るに足らないものなのです。「私は思う。今のこの時の苦しみは、やがて私達に現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」と使徒パウロが言った通りです。(ローマ8:18)

あなたは、救われていて、その日のために備えができていますか?

  
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